東神戸教会
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メッセージ   2007年のメッセージ
  
   
『 時の流れと、物語のゆくえ 』   創世記50:26、出エジプト記1:8-10 (1月14日)

どんなに大きな悲しみ・苦しみの出来事にも、いつかは必ず「区切り」の時がやって来る。
どんなに悲惨な戦争も、大きな災害も、時の流れと共に記憶を直接とどめる人が減り、
人々の記憶が薄れてゆく中で、やがて「歴史」となってゆく。

阪神大震災からまる12年が過ぎた。
干支ひと回りのこの時期に、仏教では13回忌を行なう習慣がある。
友人の僧侶に尋ねたら、13回忌に特に仏教思想的な意味合いはないそうだ。
「強いて言えば、ひとまとまりの時間が経過したことを受けとめて、
区切りをつけることかなぁ...」ということだった。

ヨセフ物語は、古代イスラエルの人々にとって、大切な伝承であった。
苦難のときにも神がヨセフを支え、やがてどん底から民を救う働きを担うに至った歩みは、
忘れ得ぬ記憶として人々の心に刻まれた。
それはイスラエルのみならず、エジプトの民にとっても同様であり、
「自国の飢饉を救ってくれた有能な外国人の物語」として語り継がれるべき内容である。

しかし聖書は「そのヨセフのことを知らない新しい王が現れた」と伝える。
そしてその王の下で、また別の物語が始まってゆくことを記すのである。
それはイスラエルの人々にとっては決して喜ばしい物語ではなかった。
しかし同時に、神の救いの大きさを指し示す出来事としても進行してゆくのである。
こうして物語は、創世記から出エジプト記へと移る。

阪神大震災の被害を直接受けた人にとって、
「12年経っても忘れられない」という思いもあるかも知れない。
自分にとって大切な存在を失った悲しみは、
どんなに時が流れても完全に癒されることはないのかも知れない。

しかしそれでも時は流れ、「震災を知らない子どもたち」が次々に生まれてきている。
この街の状況も「これまでとまったく同じ記憶のたどり方」ではない、
何か別の「新しい物語」が立ち上がる節目にさしかかっているのではないだろうか。

そのような節目に立つ私たちに最もふさわしい言葉は何か?
それは「ありがとう」という言葉ではないだろうか。
様々な事柄への感謝の思いを胸にいだいて、新しい物語を紡いでいこう。

  きみに ありがとう  とても ありがとう
  もう会えないあの人に ありがとう
  まだ見ぬ人に ありがとう
  今まで僕を 支えた情熱に ありがとう

  生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
  そうさ 生きてりゃいいのさ
  喜びも 悲しみも 立ち止まりはしない
  めぐり めぐってゆくのさ

              河島英五 『 生きてりゃいいさ 』




『 内側を磨きなさい 』   マタイによる福音書23:25−28(1月21日)

ひと頃気になっていた「電車の中で化粧をする女性」が、
このところ減ってきているような気がする。
くだんの女性たちが「他人のフリ見て我がフリ直せ」と、
自らの行動を律するようになってきているのだとしたら、それは悪いことではないだろう。
どんな場面でも自分のやりたいことを好きなようにする... 
そのような自己中心性の「醜さ」に気付くことは、人間の成長を促すものとなる。

『人は見た目が9割』という本を読んだ。
書いてあったことは大きく分けて二つ。
@人は案外見かけによって判断を左右される、ということ。
A人間の内面は、本人が意識する以上に「見た目」に表れる、ということ。
「人は見た目じゃない、中身だ!」とはよく言われることだが、
見た目を気にすることで、逆に中身も磨かれることもあるそうだ。

イエス・キリストは、律法に対する忠実さを盾に人を裁く
律法学者・ファリサイ派の人たちを、「白く塗った墓」と批判された。
外側は美しく整えるが、
内面は悪意と偽善といった「醜いもの」に満ちているあり方を戒められたのだ。
他者を常に「裁きの眼差し」で見つめる彼らのその高慢な意識は、
どんなに身なりを整えても、その態度や表情の中に滲み出ていたことだろう。

ひょっとして私たちも同じような表情をしていることがないだろうか。
私たちの心の中が、人への不満や、
自らの「正しさ」にしがみ付く意識で一杯になっていることに気付いたならば、
じっと黙って鏡を覗いてみよう。
そこに私たちは、口は「への字」に曲がり不満を表し、
眼差しは疑念の上目遣いとなっている自分自身の顔を見出すことだろう。

イエスは「まず内側を磨きなさい」と言われる。
確かにそれは大切なことだ。
しかし私たちにとって、逆の道のりもあるのではないか。
私たちが鏡の中に「人を裁こうとする醜い自分の顔」を発見したならば、
まずその顔を何とかしてみる。
「ヘの字」に曲がった口を微笑みに、
上目遣いの眼差しを真っすぐな受容の視線に変えてみる。
すると心に風が吹き、新たな自分自身への道が開かれ、内側も磨かれていく...。
そんな道のりもあるのではないだろうか。




『 後出しジャンケン 』   マタイによる福音書23:29−36(2月11日)

過ぎた過去のあやまちに関して、
それに気付いたならば改め反省し、謝罪をするのは大切なことである。
それは人間としてなすべき当然のこと、
社会生活を共同で続ける上では大切なルール・マナーだと言える。
しかしそのあやまちを追及する立場(正義)が、あまりに過剰にあふれ返ってしまうと、
それは逆に世の中を「息苦しく」させてしまう方向へと作用することがある。

「今の時点」では過ちと判断されることでも、
それが実際に行なわれていた「過去の時点」においては、
それが過ちであるとは見抜けなかった事柄がある。
それを「今の視点」に立って正義を振りかざし、その責任を追及するという人間のあり方に、
一種の「やましさ」を感じないだろうか。
それは子どもの頃、「後出しジャンケン」をして勝ってしまった、
その時に感じた「やましさ」に似ている。

イエスは、殉教した預言者の記念碑や「正しい人」の墓を作り、
その名誉を称えようとする律法学者・ファリサイ派の人々に向かって
「あなたがたは不幸だ」と言われた。
「どうして?それは悪いことではないのでは...?」と思ってしまう。

だが、彼らは記念碑を建て、そして言った。
「もしあの時代に生きていたならば、私はあんなあやまちは犯さなかっただろう」。
自分たちを常に「正義」の側に置こうとする、
その「後出しジャンケン」のような振る舞いの欺瞞性をイエスは指摘したのだ。

では、私たちには正義を願い求めることはもはや許されていないのか?
決してそうではない。
大切なことは、「自分もまた弱い人間であり、
このような正義を振りかざす権利など持っていないのかも知れない」とどこかで思いつつ、
それでも神の正義を求めていく、ということだ。

思春期の頃、「あなたの罪がイエスを十字架につけた」という言い分が
どうしても受け入れられなかった時期があった。
しかしある時「それはね、もしあなたが2千年前のゴルゴタの丘に立ってたら、
イエスを十字架にかける側に立っていたかも知れない、そういうことだよ」
そういう説明を受けて腑に落ちたことがあった。

私たちが自分自身をまず「間違い得る存在」として認める。
その上でそのあやまちに居直らず、正義を求めてゆく。
そこではおのずと「それにふさわしい」言葉が語られていくのではないだろうか。




『 嘆きの深層 』   マタイによる福音書23:37−39(2月25日)

レント(受難節)の季節に入った。
今年もイエス・キリストの十字架が私たちに問いかけるものを、
心の中で深く受けとめながら日々を過ごしたい。

「歴史に『もし』という言葉はない」とは、よく言われる言葉であるが、
「もしイエスがエルサレムへ向かわなかったら...」、ということを考えることがある。
もしそうだったら、イエスは故郷のガリラヤで多くの支持者に囲まれて、
もっと楽しく幸せな人生を歩めたはずだ。
しかしイエスはそうなさらなかった。エルサレムを見過ごしにはできなかったのだ。
それはエルサレムがユダヤ全体を覆うような「悪しきエリート主義」、
すなわち 「<勝ち組>の論理」を象徴するような街になってしまっていたからだ。

イエスはエルサレムへ向かい、
その街の「歪んだ姿」に加担していた律法学者やファリサイ派を批判された。
何の力にも頼らず、ただ言葉だけでそのような行動に出ることがどれだけ危険なことか、
イエスには分かっていたはずだ。
はたしてその結果、十字架で処刑されてしまった。

今日のテキストは、イエスがそのエルサレムに向かって嘆きの言葉を投げかける場面である。
とても辛辣な、ほとんど「呪い」と言ってもいいような言葉だ。
しかしその言葉を語るイエスの、その心の深層にはどのような思いがあったのだろうか?

私たちも人に対して、批判や嘆き、時には呪いに近い辛辣な言葉を投げかけることがある。
その心の表層には、苛立ちや不平・不満といった感情があるのは当然だ。
しかしもう少し深い部分には、相手に対して「つながりを求める強い気持ち」があるのではないか。
「つながりが薄い」と感じる人間に対しては、私たちはそれほど辛辣にならずにいられると思うのだ。
「嘆きの深層」に横たわっている感情、それは意外なことに「憎しみ」ではなく「愛」なのではないか。

Mr.Childrenもカバーしている『トーキョーシティ・ヒエラルキー』という歌に、
次のような歌詞がある。  (「ヒエラルキー」=「階級制度」)


    トーキョーシティ・ヒエラルキー  
    この街はムンクの手の中にある
    誰かが叫び どこかで渦巻き 
    とてもいとおしく なぜか美しい
    そして醜い あまりに醜い 
    醜いけど なぜか美しい
    今日もどこかで たくさんの天使たちは
    夜の東京に そっとささやきかけてる

         (『トーキョーシティ・ヒエラルキー』 山口 洋・作)

東京という街の現状に対する、愛憎の入り混じった感情を見事に写し出す言葉である。
エルサレムに対し嘆きの言葉を語るイエスの深層にあったのも、同じ感情ではなかったか。
それは神の選ばれた街、エルサレムに対する「愛」だったと思うのだ。

私たちもまた、エルサレムのような存在ではないだろうか。
神に選ばれ、愛された者であることを知りながら、それに背いてしまう。
そのような姿の中にある私たちに対して、聖書の言葉は時にとても厳しいものである。
それは神さまの、私たち人間に対する「嘆きの言葉」として響いてくる。

しかしその嘆きの深層にあるのは決して憎しみや呪いではなく、
私たちに対する神さまの「愛」ゆえの厳しさなのだということを信じて歩みたい。




『 狼少年のパラドクス 』   マタイによる福音書24:1−14(3月11日)

人は、自分が問題を感じている現実の出来事に対し、批判や警告を繰り返すうちに、
自分の予測する「最悪の事態」について、これが回避されることではなく、
それが実現してしまうことを望むようになる。
自分の立てた「悪い見通し」が的中することこそが、
そのような予測を立てる自分の正しさを証明することになるからである。
この「そら見たことか!」的な心情のことを「狼少年のパラドクス」(@内田樹)と呼んでいる。

エルサレムの神殿、その壮大な建造物を見て感嘆している弟子たち。
しかしイエスは「これらのどの石も、崩れずに残るものはない」と言われた。
人間の作り上げたものは絶対ではない、限りあるものなのだ、ということを表す言葉である。
ところが弟子たちは、これを「世の終わり(終末)」についてのイエスの預言だと受けとめた。

イエスはしばしば、エルサレムの神殿貴族たちの権威主義的な振る舞いを批判された。
その同じ思いは、弟子たちの心の中にもあったことだろう。
「このままでは、この街(国)はダメになる。神の裁きを受けることになる!」
そんな思いを弟子たちもまたどこかに抱いていた。
だからこそ彼らは、イエスの弟子となり、その後に従ったのである。

しかし彼らは、「ならばその街に踏み止まって、その滅びを何とかして防ごう」とは考えずに、
いつしか「やがて訪れる『その日』の到来」を待望するようになっていた。
だから先のイエスの言葉を、「エルサレムの滅び・終末の到来の宣告」ととらえたのだろう。
イエスに向かって「先生、いつそのようなことが起こるでしょうか?どんな徴がありますか?」
そのように(恐らく意気揚々と)聞く彼らの思いは、「狼少年のパラドクス」に支配されている。

この問いに、イエスは様々なことを答えておられる。具体的な「天変地異」にも言及しておられる。
しかし全体を通して言われていることは、
「いろんなことが起こるだろうし、いろんなことを言う人が現れるだろう。だが惑わされるな。
それがいつ来るのか、誰にも分からない。ただ神のみぞ知る」ということである。
「意気揚々と...」ではなく、「淋しそうに、悲しそうに」語られるイエスの表情を想像する。

そうしてイエスは、そのエルサレムに向かって歩みを進められる。
悪に支配された街に対して下される、「滅び」の宣告を、
あのノアのように(創世記6‐9章)、安全な場所(箱舟)から第三者的に眺めるのではなく、
アブラハムのように(創世記18:16−33)その街に踏み止まり、何とかして神の赦しを得るために、
その身を賭けて、非暴力による闘いを挑んでいかれたのである。

私たちの心も、「狼少年のパラドクス」にたやすく支配されてしまう。
それを乗り越えて、「踏み止まるひとり」になろう。




『 ピース・サインの入城行進 』 マタイによる福音書21:1−11(3月18日)

甲子園の高校野球、入場行進に臨む球児たちの姿を見るのが好きだ。
あこがれの聖地に立った球児たちの表情は誇りと喜びに満ち、
高揚感がひとりひとりに大きな輝きを注いでいる。
とてもステキな風景である。

しかし今日の聖書の箇所は、少し様相の違う入場行進、
イエスのエルサレムへの「入城行進」の場面である。
その日、神殿に向かうイエスを、人々は「ホサナ!(救いたまえ!)と叫び、
勝利を象徴するなつめやし(シュロ)の葉を振って迎えたという。

「あのダビデのように力を持って悪しき敵を打ち倒し、
イスラエルに栄光を取り戻される王が来られる!」そんな思いの中、
人々の期待は最高潮に達していたことだろう。
歴代の「有能」な権力者たちは、このような機会を逃さず、
自らの権威を高めるような演説や振る舞いをした。
しかしイエスは、それとは正反対のパフォーマンスをされたのであった。

イエスは弟子たちにロバの子どもを引いてこさせ、
その背中に乗って神殿に向かわれた。
それはバビロン捕囚時代の預言者・ゼカリアが語った
「真の平和をもたらす王」の姿であった。
バビロニア支配からの解放をもたらす救い主の姿を、
ゼカリアは「力強い馬にまたがる勇姿」としてではなく、
小さなロバに乗った弱々しい姿として物語る。
真の平和とは力では実現しないことを示す言葉である。

子どものロバにまたがりヨチヨチと神殿に向かうイエスの姿。
それはピース・サインの入城行進である。
悪しき力には従わず、しかし力で力に対抗するのではなく、
非暴力で弱い立場を自ら引き受け、苦しみを背負う。
そのような歩みにこそ、和解と救いへの扉が開かれる鍵があることを
イエスは示される。




『 イエスの苛立ち 』 マタイによる福音書21:12−22(3月25日)

先週、ロバの子にまたがってエルサレムに入城する姿から、
イエスの平和へのメッセージを読み取った。
しかし続く今日の箇所には、そのイメージを変更せざるを得ないような、
激しく猛々しいイエスのふるまいが記されている。
イエスが神殿で商売する人々を腕ずくで追放しようとされた、
いわゆる『神殿粛清』の出来事である。

「イエスさまは救い主、いつもニコニコ、やさしいお方」...
そうであって欲しい…と私たちは願っている。
しかしそれは私たちの願望であり、
実際には、聖書には激しく厳しいイエスの姿も記されている。
今日の箇所もそんな箇所のひとつだ。

この神殿でのふるまいは、ある意味「ムチャな」行為であった。
ある学者はこのイエスの行為について、「ある国を批判する人が、
広場でその国の国旗を焼くのに等しい行為」だと言っていた。
たちまち人々の憎しみを買うような、挑発的な行為である。
実際、イエスが十字架にかけられる直接の引き金は、
恐らくこの出来事がきっかけであった。

ではなぜイエスはそのような「ムチャな」行動に出られたのか?
イエスがひっくり返したのは、「両替人の台」や「鳩を売る者の腰かけ」だった。
両替人とは「汚れた貨幣」を「清い貨幣」に代える人のこと。
「汚れた存在」とされていた病人や障害者、異邦人の触れたお金は「ケガレている」。
それを「清いお金」に替えて初めて献金ができる、という習慣の中、
両替をすることで手数料を得ていた人たちである。
「ケガレ」の思想があるからこそ、成り立つ商売だと言える。
そして鳩売りとは、貧しき庶民のいけにえであった鳩を売る人、
貧乏人からなけなしの財産をお供え物の代金として巻き上げるような人々だった。

神殿で人が神に祈る ― 誰もが等しく求めるその宗教的な営みの中にさえ、
人が勝手に決めた優劣の判断・ランク付けが持ち込まれている。
そんな神殿のありようを見て、イエスは怒り、彼らを実力で排除されたのだ。
これはそうすることで十字架にかけられ、自らを贖いの供え物として献げることにより、
結果的に人の罪をゆるし救うことになる、といった「計算ずくの」行動なのだろうか?
むしろ僕はここに、イエスの「苛立ち」を見るような思いがする。

それは続く「いちじくの木への呪い」の箇所でも同じである。
自分が食べたい時に実をつけていなかった・・・(実りの季節ではなかったから)
それだけのことでイエスはこの木を呪い、枯らしてしまった、と記されている。
「いちじく」とはエルサレムのことであり、神の祝福を受けたにも関わらず、
実りをつけないそのあり様をイエスが叱られたのだ、という解釈もある。
しかしそれにしても、あんまりな話、いちじくの立場に立てば理不尽な話である。
ここでのイエスは尋常ではない。やはり苛立っている。

イエスだって苛立つことがあった― それでいいのではないだろうか。
それでは都合悪いだろうか?「イメージと合わない」と失望するだろうか?
しかし、人間が軽んじられている現実を見ながら「冷静に」それに対処する姿ではなく、
むしろ激しく憤る姿の中に、人間としての真実な姿があるのではないか。
なぜなら、どんな時にも怒らずに冷静でいられるというのは、
ある意味では愛を忘れた無関心な姿なのかも知れないのだから。




『 重い背中に生える翼 』  ヨハネによる福音書21:1−12  (4月8日・イースター)

イースターの喜びは、クリスマスとは味わいが違う。
クリスマスが天からまっすぐに切り込んでくる「救いの光」であるのに対して、
イースターは人間のあやまちによって地の底に沈み込んでしまった「いのち」が、
夜明けと共に再び立ち上がる、そんな「希望の光」だと言える。
その「光」を見出すには、自分の歩みの中の「闇」を見ることが不可欠だ。

イエスを裏切ったペトロ。
彼はどんな思いでイースターの朝を迎え、その後の日々を過ごしたことだろう。
墓を訪れた女たちが報告する、「イエスの復活」の知らせを聞いても、
きれいさっぱり「救われ」て、心の底から喜んだわけではなかったと思う。
イエスのことを「知らない」と3度にわたって否認した出来事を忘れられず、
後悔と自責の念に苛まれ、その後も悶々とした日々を過ごしたのではないか。
彼が再び立ち上がるペンテコステの日まで、あと40数日の日々が必要だった。

しかしある日彼は、「私は漁に行く」と言った。
それはペトロがイエスの弟子となるまで生業としていた自分の仕事、
彼にとっての日常、ルーティーンワークであった。

決して「晴れ晴れ」とした思いでそこに向かったわけではなかっただろう。
沈む思い、情けない気持ち、重たい足取りを抱えながら、
それでもペトロは「私は漁に行く」と出てゆく。日常へ戻ってゆく。
その姿は立派ではない ― でも美しい、と思う。「カッコいい」と思う。
その歩みの中に、かすかな、しかし確かな光が差し込んでくるのを感じる。
「闇から光へ」 ―― それがペトロにとっての「死と再生」である。

  「人はみな、誰にも見せられない『重い背中』を持ってる。
   それを人に見られないように胸を張るが、
   胸を張れば張るほど『重たい背中』は軋み、悲鳴を上げる・・・・・・。

   でも不思議なものさ。
   そういうヤツに限って、必ず背中に翼が生えてくる。
   重い背中をかかえるヤツこそ、高く飛べるんだ...」

                   (映画『ホテル・ビーナス』より)。

重い背中にはきっと翼が生える。
それが弟子たちの「死と復活」であり、イースターの希望である。




『 そこに炭火がおこしてあった 』   ヨハネによる福音書21:1−12(4月15日)

春は新しい出発の時である。
多くの人々が、期待と不安が入り混りつつも晴れやかな気持ちでスタートを切る季節であろう。
しかし、新たなスタートというものは、皆が皆、晴れがましいものとは限らない。
恐れや失意、できることなら逃げ出したいような思いを抱えたままの再出発もあることだろう。

ペトロの再出発もそんな「不安と恐れ」を抱いたままのものであった。
イエス・キリストを裏切り、三度にわたって否認し、
復活の知らせを聞きながらもなお心が晴れることなく、
暗く沈みきった心で数日間を過ごしたペトロ。
しかしある朝、彼は「私は漁に行く」と言って出かけてゆく。
プレッシャーを感じながら、逃げ出したい思いを抱きながら、彼は日常へと戻ってゆく。

そのように意を決して出かけた漁であったが、その夜は何も獲れなかった。
その時「何か食べるものがあるか?」と岸辺で問う声がかかる。
そしてその声に導かれるままに網を下ろしてみると、おびただしい量の漁獲が与えられた。
ペトロや弟子たちはその人が復活のイエスであることを悟る。

「さぁ、一緒に食事をしよう」イエスに招かれて岸に上がってみると、
「そこに炭火がおこしてあった」と記されている。
何か大切なことが言われているような気がする。
この出来事が私たちに示すメッセージは、何だろうか。

私たちの人生には、新たな再出発をする節目がいくつか訪れる。
不安や恐れを抱いてその節目に臨まなければならない時があるかも知れない。
しかし、そんな思いをかかえながらでも一歩を進めるその先には、きっと炭火がおこしてある。
「あなたにとって必要なものを供えてくれる出会いがきっとある。
そのことを信じて漁に(即ち進むべき道に)向かっていきなさい」
― そんなメッセージが示されているのではないか。

  「『生きてりゃいろんなことがある』と、人は言う。
   ちょっと違う、と思う。
   いろんなことがあるから、だから僕らは生きるんだ。
   そうだろう?」    (映画『ホテル・ヴィーナス』より)

「そこに炭火がおこしてあるから」、だから私たちは生きる。生きられる。
そんなことを信じられる信仰を求めて、これからも歩みたい。




『 あなたのその「 愛」でいいから』   ヨハネによる福音書21:15−19(4月22日)

新約聖書の言語・ギリシャ語において、「愛」を表す言葉は4つある。
@エロース=見返りを求める愛。男女の愛や物への愛。
Aストルゲー=親子の愛、血肉の情。
Bフィリア=友情、友愛。性愛とは別の意味で人を「好き」と感じる感情。
Cアガペー=見返りを求めない愛、その存在そのものを愛する愛。
このうち聖書には、フィリアとアガペーしか出てこない。

ヨハネ福音書はこの二つの「愛」という言葉を、かなりはっきりと使い分けている。
人間的な愛を表す時にはフィリアを、
そしてイエスの愛、神の愛を語るときにはアガペーを使っている。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:12)
このような愛は「アガペー」である。
いっぽう「自分の命を愛する者は、それを失う...」という時の愛は、「フィリア」である。

復活のイエスとペトロとの出会いの時の対話で、
イエスはペトロに「あなたはわたしを愛するか?」と3度にわたって尋ねられ、
ペトロは「わたしがあなたを愛していることはあなたがよくご存知です。」と3度とも答えている。
「3度」という数字は、十字架の出来事の時にペトロがイエスのことを
「あんな人は知らない!」と言って3回にわたって否認した回数と重なり、
読んでいる側もペトロの思いを想像して、いたたまれない気持ちになる。

しかしこの箇所を原語のギリシャ語聖書で読むと、
日本語では気が付かないもうひとつの「しかけ」が施してあることに気付く。
1回目と2回目にイエスが「愛するか」と尋ねられるときには、
「アガパオー?」という問いに対し、ペトロは「フィレオー」と答えており、
問いと答えのやりとりに「ズレ」があるのが分かる。
<見返りを求めない神様のような愛>、そのような思いで「わたしを愛するか?」と聞くイエスに、
ペトロは<人間的な愛ならば持つことができます>と答えているのである。

しかし3度目はイエスの方から「フィレオー?」と尋ねておられる。
イエスの方から、ペトロの思いへと近づいてきて下さるのである。
生身の人間には、なかなか<アガペー=神様のような愛>に生きることはできない。
「自分の命を友のために捨てる」、そんな愛にはとても生きることはできない。
<フィレオー>、すなわち人間的な愛に生きることが精一杯...それが正直なところだろう。

でも「あなたのその『愛』でいいから、わたしに従って来なさい」、
そんな風にイエスは私たちに呼びかけて下さるのである。




『 特権を捨てて 』 出エジプト記2:11−15 (5月6日)

人間は、いったん特権を手に入れると、
なかなかそれを手放そうとはしないものである。
昔の封建制度時代の権力者たちは、
いかにして自分の王座を直系の子孫に受け渡すかに腐心した。
現代でも、政治家や官僚の天下りから、高校野球の「特待生」に至るまで、
「特権」というものは人の心を掴む魅力を持っている。

しかし時には、そのような特権を捨てて別の道に進む人もいる。
そして、その眼差しから見極めた思想が、他の人々を導くということがある。
仏教の教祖にあたるブッダは、人生の空しさを感じる中から、
やがて王子の生まれた立場を捨て、出家することによって悟りを開いた。
彼が特権にしがみつく人だったならば、仏教という宗教は生まれなかった。

聖書にも、ブッダとは別の形ではあるが特権を捨てた人の物語が記されている。
その中のひとりが、モーセである。
後にイスラエルびとを、エジプトでの奴隷の苦難から救うことなる人物であるが、
彼はエジプトの女王によって育てられた「王子」であった。

モーセの詳しい出生の「いきさつ」については出エジプト記1章に譲るが、
王家の子どもでありながら、実はヘブライ人(イスラエルびと)としての出生を自認するという、
複雑なアイデンティティの持ち主であった。
ある日、ひとりのヘブライ人がエジプト人から虐待を受けているの見て、
これに介入し勢いあまってそのエジプト人を殺害してしまう。
そのことが原因となって、やがてモーセはエジプトのファラオ(王)の元から
逃げ出さなければならなくなってしまった。

どうしてモーセはこの出来事に介入したのだろうか。
「自分には関係がない」と言って通り過ぎておけば、
王子としての特権を手放すこともなかった。
しかしそのようにして同胞の痛みに対し、見ぬフリをして生きることは、
彼にとって本当の「生きて甲斐ある人生」ではなかったのだろう。
「義を見てせざるは勇なきなり」。
それでモーセは「特権を捨てて」介入した。

私たちはもうひとり、特権を捨てて、隣人の救いのために生きた人を知っている。
それは言うまでもなく、イエス・キリストである。
フィリピ2:6−9に記された「キリスト賛歌」はそのことを謳い上げる。

  キリストは、神の身分でありながら、
  神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
  かえって自分を無にして、僕の身分になり、
  人間と同じ者になられました。
  人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、
  それも十字架の死に至るまで従順でした。

モーセとイエス。
それぞれ旧約と新約の要(かなめ)となる重要な人物である。
これら「特権を捨てて」生きた人々の生き様に触れて、私たちはどう生きようとするのか。
そのことが問いかけられている。




『 今日は母の日 』   エフェソの信徒への手紙6:1−4(5月13日)

「自分と母親(父親)との関係」というものは、人によってそれぞれであろう。
大変仲の良い、友好な関係の中にある人もいれば、
いろいろと複雑な部分を抱えている関係性もあろう。
必ずしも「仲睦まじく」でなくてもいいのかも知れない。
親と子の関係とはそういうものだ。

しかし、様々な感情に流されて、
大切に覚えなければならない事実を見失ってはいけないだろう。
それは、その母親(父親)がいなければ、
自分は今ここに存在することはなかった、ということだ。
懐妊が分かってから7〜8ヶ月小さな命を守り育み、
生まれてから後も放っておけばすぐにでも消えてしまう命を支え育ててくれた親の存在。
それなくして、誰一人自分の力だけでは生きて来れなかった。

聖書には「あなたの父と母を敬え」という教えがある。
しかし「聖書に書いてあるから敬う」というのは何か違うような気がする。
ましてやレビ記に「父母を呪う者は死刑に処せられる」と書いてある、
だから「死刑にならないために敬う」、というのでは本末転倒だ。
「この人(たち)なくして、自分はこの世に存在し得なかった」という事実に
目を向けるところから生じる自然な感謝の思い、
それが本当の「親を敬うこころ」というものであろう。

では、その感謝の思いを表すのに、最もふさわしい振る舞いは何か?
カーネーションの花や、贈り物をすることもいいだろう。
しかしそれよりももっと喜ばれるのは、自分に与えられた命を大切にして、
生き生きと生きることではないか。
「いろいろ心配かけたけど、でも大丈夫。わたしはちゃんと生きていきます」
そのように言える人生を歩むこと、それが何よりの『母の日』の贈り物だ。




『 気の重いことであっても...』    使徒言行録1:15−26(5月20日)

世の中には、出来ることなら誰もが負いたくない、
しかし誰かが負わねばならない「気の重い仕事」がある。
誰もが進んで負おうとしないその役目を、
「ならば私がやりましょう」と申し出る人が一定数現れるかどうか。
そこにその共同体(社会)の成熟度が示される。
もしもそのように申し出る人がひとりもいなくなってしまったならば、
その共同体(社会)はバラバラになり崩壊してしまうだろう。

イエス・キリストを失った弟子集団は、まさにそのような危機にあったと言えよう。
リーダーを失い、なおも弾圧を企てる人々の目を恐れて、
密かに集まっては、ただただ祈るしかなかった弟子たち。
しかし彼らはそんな状況下で、ひとつの決断を下していく。
それは、ユダの死(マタイでは自死、ルカでは天罰による転落死)によって
欠員となっていた「12弟子の補充選挙」であった。

イエスの弟子が本当に12人しかいなかったのか?ということについては各論がある。
そこに初代教会における「十二使徒の権威主義」の問題を指摘する声もある。
確かに後の時代には、そのような問題が生じたこともあったかも知れない。
しかし、今日の聖書の箇所はまったく状況が違う。

ここでは、補充員に選ばれることは、決して名誉でも喜ばしいことでもなく、
むしろ出来ることなら引き受けたくない「気の重い役割」だったに違いない。
なぜならこの時点で彼らは、まだペンテコステの「聖霊の導き」を受けはいない、
そんな「吹けば飛ぶような」状況に置かれていたのだから。

その補充員は「神意」を示す方法として、くじ引きで選ばれた。
選出されたマティアは、きっと身をよじる思いでその「気の重い」役割を受けたことだろう。
「できればご免こうむりたい、正直言えばやりたくない」そう思いつつ、受けたことだろう。
そのような働きがあったからこそ、キリストの福音は世に伝えられたのだ。




『 何だか勇気がわいてくる 』  ローマの信徒への手紙8:26−30(5月27日・ペンテコステ礼拝)

以前、東神戸教会の礼拝でもメッセージを語って下さった、富田正樹先生(同志社香理高校)が、
近著『信じる気持ち』の中で「速い宗教体験」と「遅い宗教体験」ということを書いておられる。
「私は神に会った」「神の言葉を聞いた」という「速い」体験に対して、
「その時は分からなかったけど、あとで振り返ったら、『あぁ、そう言えばあの時、
神さまの導きがあったのかも...』と思えるような体験」― それを「遅い」宗教体験、と表現しておられた。
私たちが感じる「神さまの導き」とは、その多くが「遅い宗教体験」ではないだろうか。

ペンテコステの出来事は、現代に生きる私たちにとって、そのままでは理解しづらい事柄である。
弱々しかった弟子たちに聖霊が下ると、いきなり力が沸いてきて、
しかも突然外国の言葉で喋り出したというのだから...。
これを「速い宗教体験」ととらえると、大変奇異な現象だと言える。
しかし実際にはもう少しスローな、「遅い聖霊体験」だったのでは...
そう考えると、腑に落ちて理解できるように思う。

   ♪ ふしぎな風がびゅうっと吹けば、何だか勇気がわいてくる
     イエスさまのお守りがきっとあるよ...♪
          (こどもさんびか改訂版94 『ふしぎなかぜが』)

こどもたちとペンテコステの出来事を分かち合いたくて作った賛美歌である。
目には見えない、でも確かにある「ふしぎな風」。それを受けると「何だか」勇気がわいてくる。
聖霊の導きとは、「今、はっきりと」ではなく、「何だか」感じられるものではないかと思う。

例えば、煮詰まっていた人間関係や、つらく厳しい状況が、
どうしてか分からないけれど少し改善に向かって進み出すことがある。
そのとき私たちは、「どこからか、いい風吹いてきた...」とつぶやいたりする。
「聖霊の導き」とは、そういうものではないか。

「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」
「霊はみこころに従って、聖なる者たちのためにとりなしをしてくださいます」
「ご計画に従って召された者たちは、万事が益となるように共に働いてくださいます」
ローマ書8章に記されたパウロの言葉である。

「万事が益となる」― 本当にそうなのだろうか?
「それは違うではないか!人生には不幸も苦しみもあるではないか!」と思ってしまう。
確かに私たちの人生には、そういう思いを持つ時もある...。

しかし、それでも風は吹いている。
一時、無風状態、「凪(なぎ)」に思える時もあるだろう。
けれどもまったく風の吹かなかった日は、一日たりともない。必ず風は吹いてくる。
風は目には見えない。でも、風は確かに「ある」。

その風の中に「目には見えないけど、確かにある、神さまの導き」を感じる心を忘れない限り、
「何だか勇気がわいてくる」― そんな歩みをきっと取りもどすことができる。
それが聖霊に導かれた人の歩みである。




『 勇気をもって語るとき... 』   使徒言行録巣2:22−24(6月10日)

心の中に「このことはぜひ語らなければならない」という思いがありながら、
勇気が持てずに語れないという体験は、誰もが一度は覚えがあるはずだ。
「和をもって尊しとなす」という日本的な文化の中での選択とも言えるが、
もうひとつ「自分が傷付きたくない」という自己保身の感情がそこにあることは否めない。

PTAの総会などで、会場では誰も何も発言しないけれども、
総会が終了し会場を出るあたりから人々は口を開き始め、
帰り道には雄弁な「いっぱしの批判者」になるという風景が、あちこちで見られる。
ならばなぜ発言しないのか? ― 自己保身の思いから勇気が持てないのであろう。

イエス・キリストを失った弟子たちは、
イエスから示された神の国の福音を、最初は人に語り伝えるということができなかった。
それは大切な指導者を失って意気消沈していた、ということだけでなく、
自分たちもイエスと同じように十字架の苦しみを負わされるかも知れない...
そんなことへの恐れもあってのことだったろう。
「自己保身」の思いが、彼らの歩みを押しとどめていた。

しかしペンテコステの日、ふしぎな風を通して聖霊の導きを与えられた弟子たちは、
勇気を持ってイエスの示された福音を語り出した。
「あなたがたが十字架につけたイエスを、神はよみがえらされたのだ。」
あんなに恐れていた人たちに向かって、
「あなたがたが…」と直接名指しで語るペトロの姿が記されている。

ペトロはいったいどんな表情で語ったのだろうか。
自信に満ちた表情で…?そうではないような気がする。
声は震え、顔面蒼白の面持ちで語り出したのではないだろうか。

するとそれを聞いた人はどうしたか?
「怒り狂って、すぐさまペトロや他の弟子たちを捕まえ...」・・・そうではなかった。
人々はこれを聞いて心を打たれ、次々に洗礼を受けたことが記されている。

「一日に3,000人が...」という記事には多少の誇張もあるだろう。
しかし「自己保身」の思いを振り切って勇気をもって語るとき、
そこに何かとてつもない新しい歩みが始まることもある...
そんなことを教えてくれる出来事である。




『 あきらめちゃいけない 』   ローマの信徒への手紙5:1−5a (6月17日 こどもの日CS合同礼拝)

幼稚園のハナコ先生から聞いたお話です。
ハナコ先生の幼稚園に通っているなおちゃんは、“どろだんご”作りがとても大好きな女の子でした。
どろだんごを作るのには細心の注意が必要です。
土に水を加えて作ったドロをまるめて、その上から“サラ砂”をかけていくのですが、
ちょっとでも衝撃を加えるとヒビが入って割れてしまいます。
うまくいくとピカピカのどろだんごが出来上がります。

ある時、なおちゃんは何日もかけて少しずつどろだんごを作っていきました。
でも「あと少しで完成…」というところで小さなヒビが入り、二つに割れて粉々になってしまいました。
なおちゃん、悔しかっただろうね。泣きたかったかも知れないね。
でもなおちゃん、ハナコ先生の方を向いて言ったそうです。
「こういうこともあるねん!」
「どろだんごが壊れたら“サラ砂”ができるから、
 そしたらまた作ったらええねん!」。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

てつや先生は「おとなの悩み相談」をしています。
あるときこんな相談がありました。
「私は何をやっても身が入らず、長続きしません。どうしたらいいでしょうか?」。

てつや先生は答えました。

「あまり最初から頑張り過ぎないようにしてはどうでしょう?ゆるゆる始めるんです。
僕はある日、近くの川の土手でジョギングを始めました。
最初はしんどくて、いつも走っているおじいさんのスピードにもついて行けませんでした。
そこで考え方を改めました。
 『ゆっくり走ってみよう。歩くよりも遅くってもいいじゃない!』
ただしカッコ悪いので、みんなが走ってる朝や夕方の時間は避けて、
真夜中にゆるゆる走り始めました。それを半年続けました。
半年後、僕は10qを平気で走れるようになっていました。
しかも、他の人と同じスピードで。
無理してしんどくなると続かない。でもゆるゆる始めると、
気が付いたらたくさんのことができるようになってるかも知れませんよ」。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なおちゃんも、てつや先生も大切なことを教えてくれます。
それは「あきらめないこと」です。
失敗してもいい、間違ってもいい。
でも、あきらめなければ、そこに何かが始まります。

「わたしたちは知っているのです。
 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
 希望はわたしたちを欺くことがありません。」
                              (ローマ5:3−5)




『 あなたがたの役目は終わった 』   マタイによる福音書21:23−32(6月24日)

人には誰であれ、その人に与えられた固有の役割がある。
他人との比較によらず、その与えられた役目を誠実に担うことは、
人生において大切な課題である。

しかし一方、人には必ずその役目を終える時もやってくる。
ところが私たちの心の中に「執着」が残っていると、
去り際を悟れずに往生際の悪い姿をさらしてしまう。

自分の役割を出し惜しみや卑下することなくしっかりと果たすと共に、
役割が終わったと感じた時には、
しがみつかず慎ましく去り際を飾れるようでありたいと思う。

イエスの神殿でのふるまい(宮で教える、商売人を追い出す、等々)を見て、
長老や祭司長たちが「あなたは何の権威でこれらのことをするのか?」と問うた。
このような問いを発すること自体、
彼らが権威主義的なあり方に乗っかってきたことを物語っている。
彼らの語る「教え」を、民衆がうやうやしく拝聴する...
― それが彼らの理想と考えた「秩序」であった。

イエスはこの問いに、まともには答えられなかった。
それはイエス自身が、自分の活動やメッセージを、
何の権威にも頼らずに行ないまた語っておられたからであろう。
「ヨハネのバプテスマをどう思うか?」と逆にはぐらかすように問いかけ、
彼らが何も返せないでいると「では、私も答えない」と一蹴された。

それに続く言葉は、とても大胆な発言だ。
「徴税人や娼婦たちの方が、あなたがた(長老・祭司長)より先に神の国に入るだろう」。
ここではっきりとイエスは「あなた方の役目は終わった」と宣言される。
宗教者が権威を振りかざし、人々を型にはめていくような宣教の時代は終わった。
大切なのは「秩序に対する忠誠」などではなく、
ただ悔い改める心を持つことなのだ、とイエスは語るのである。

ふり返って、私たちの信仰もイエスから
「あなたの役目は終わった」と言われるようなものではないか、考えてみたい。
心のありようよりも形を重視するようになったり、
共に生きる喜びよりもひとを裁くことにやっきになったりすることは、
心の硬化の始まりである。
日々悔い改めつつ、しなやかな心を求めて歩みたい。




『 捨てられた石が世界を救う 』 マタイによる福音書21:33−46(7月8日)

私たちの生きる社会では、様々な「切り捨て」が行なわれる。
しかし歴史の中で、そのように捨てられた人が、
実は大切な事柄を体現していたというケースは、枚挙にいとまがない。
イエス・キリストもそのようにして「捨てられた存在」でありながら、
大切なものを残した人々の系譜につらなる人であった。

「ぶどう園の農夫のたとえ」が記されている。
ぶどう園の主人は神さま、農夫は祭司長や長老たち、
先に送られた僕は歴代の預言者を表している、と読むのが一般的だ。
最後に送られ、なぶり殺しにされる「ひとり息子」、
それはイエスご自身を指しているということだ。
きっとイエスは、自分に迫る命の危機を感じながらこのたとえを語られたことだろう。

そしてその締めくくりに、詩篇118篇の言葉を引用される。

  「家作りが捨てた石が隅の親石となる。
   それは神のなさることで、我々の目には不思議に見える」。

大工が、「こんな石などいらない」そう言って捨てた石が、
いつの間にか家全体を支える大切な働きをすることになる。
「捨てられた石が世界を救う」とイエスは語るのだ。

直接的には、イエスの目の前にいる律法学者・祭司長らに向けられた言葉である。
しかし、より広い意味で私たちへのメッセージでもある。

私たちもまた、自分の価値観を絶対化して人を裁いたり、切り捨てたりすることがある。
しかしそのように「捨ててしまった人の存在」が、
時の流れの中で自分を大切な方向へと導いてくれることがある。
自分のことで恐縮だが、かつて友人をイジメてしまった恥ずかしい記憶が、
大人になった自分を正してくれる、とか、
牧師としてうまく向き合えなかった人との関わりが、
その後の牧師としてのたたずまいを整えてくれるということは「ある」と思う。

捨てられた石が世界を救う・・・・・・
その、神のなさる不思議なみ業に気付くことのできる者でありたい。




『 何と素晴らしい世界! 』  創世記1:27−2:4a(7月15日・第3礼拝)

ベトナム戦争を題材にした映画『グッドモーニング・ヴェトナム』の中で、
ルイ・アームストロング(サッチモ)の歌う“What a wonderful world”が挿入歌として流れる場面がある。

  「赤いバラ、緑の木立ち、青い空、白い雲を見て、
   私は自分にこう言う『何て素晴らしい世界なんだ』と」。

至極の平安を歌う歌詞の背後で流れる映像は、米軍ヘリによる密林への爆撃のシーン...。
究極の平和と戦争の現実とのギャップが、大変印象に残る場面であった。
それは「こんなに世界は素晴らしいのに、人間は何てことをするのだ!」という告発のようにも思えたし、
「現実には悲惨な戦争があるけど、それでも世界は素晴らしいのだ!」というメッセージのようにも感じられた。

はてしない広がりを持つ宇宙の中で、生命の存在する星は、今ところ、知る限り、この地球だけ。
この星に生きるすべてのいのちは、本当に奇跡のような存在なのだ...
そんな風に考えることができれば、おのずと感謝の思いが生まれてくるはず。
しかし私たちはしばしば感謝の心を忘れ、不平・不満、他者への批判といったものに心を支配されてしまう。
それは「存在の奇跡」を忘れてしまい、
自分が今ここに生きていることが「あたりまえ」になってしまっているからではないだろうか。

旧約聖書・創世記の物語の中で、繰り返し出てくる言葉がある。

  「神は創造されたものを見て、よしとされた」。
  「見よ、それはきわめてよかった」。

実はこの物語が編集された時代は、バビロン捕囚という「苦しみの時代」であった。
でも人々は「こんなに苦しいから、私の人生は空しい」と考えずに、
「今は苦しいけど、それでも天地創造の始め、この世界は『きわめてよかった!』」そう考えたのだ。

サッチモの歌う歌詞の中に、“I think to myself…”という言葉があった。
実際には辛い・しんどいことがあっても、「それでも自分に言い聞かせる」、そんな意味合いを感じる。

生きる上で様々な悩み・悲しみに出会うことがあっても、それでも赤いバラや緑の木々を見て思う。
「何て素晴らしい世界なんだ」。

子どもたちの育ち行く未来に希望が見えなくても、それでも彼らの可能性を信じて思う。
「何て素晴らしい世界なんだ」。

そう「自分に言い聞かせて」生きる時、世界が違って見えてくるのではないだろうか。




『 宙に浮いた招待状 』 マタイによる福音書22:1−14(7月22日)

大学生の頃、「ご当選されたことに祝福をお届けします」といった手紙にほだされて、
外資系の雑誌を1年間購読した(させられた)ことがある。
いわゆる「当選商法」というヤツに引っかかったという訳だ。
特別な招待状をもらうと、人の心はそれに惹かれてしまうものである。

しかし今日の箇所は、まったく正反対の事柄が語られている。
婚宴を主催する人があちこちに招待状を送るのだが、
それを受けた人々はあれこれと理由をつけてそれを断ってしまう。
「宙に浮いた年金」ならぬ「宙に浮いた招待状」である。
主催者は僕に命じて、当初招かれる予定のなかった人々を、通りに出て行って集めてくる...。
もともとのたとえ話はそんな内容だ。

これは、当時のイスラエルで、当初神の招きを受けていたユダヤ人たちがそれを拒んだため、
遊女、徴税人といった「罪人」たちが神の国に招かれていく...
そんなことを物語るイエスのたとえであった。

これがマタイになると、より物騒なお話に変わる。
招待状を反故にされ、送った僕を殺された主人は、
怒って彼らを捕らえ滅ぼし、その街まで焼き払ってしまう。
さらに、無理やり集められた人の中に「礼服を着ていない人」がいるのを見つけると、彼を追放する。
ずい分と理不尽なお話だ。

これはマタイが生きていた時代の影響があると言われている。
「焼き払われた街」とは、紀元70年のエルサレム陥落を表しており、
神の国の福音はユダヤ人(最初の招待者)から異邦人(街や通りにいる人)に向けて語られてゆく。
しかし異邦人の中にも「ふさわしくない者がいる」、
そう感じたマタイの視点が含まれているということである。

私たちは、神の招きを「宙に浮いた招待状」にしてしまってはいないだろうか。
イエスに従う道は必ずしも「心地よい世界」を約束してくれるものではない。
十字架を背負って従う、そんな道のりを、
あれこれと理由をつけて断ってしまう自分の姿をふり返りたい。
しかしそんな道のりの行く先に、本当の豊かさがあると気付くとき、
招きに応える歩みが始まる。




『 神のものは神に 』 マタイによる福音書22:15‐22(7月29日)

住民税の高騰が、庶民の生活を圧迫している。
税金を誰に対してどのように支払うべきか...。
それは昔も今も、民衆にとっては切実でデリケートな問題である。

「皇帝に税金を納めるべきでしょうか?」このファリサイ派の質問は、
Yes, No, どちらに答えてもイエスの立場を悪くする「ひっかけ問題」であった。
この悪意に満ちた問いに対して、
イエスはいつものように真正面からは答えず、逆に問いを返される。
「あなたがたが税金を納める貨幣に刻まれているのは誰の像か?」。
「皇帝のものです」と彼らが答えると、
イエスは、「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられた。

この「皇帝のものは皇帝に...」というイエスの言葉は「政教分離」、すなわち
「宗教は世俗の政治のことに関わるべきではない」という主張と共に引用されることが多い。
ローマ書でパウロが「上に立つ権威は、神が立てられたものだから従いなさい。
税金も払いなさい」と勧めている言葉も同様の文脈で引用される。
しかしこのイエスの言葉を「政教分離」とからめてとらえるのは、少々無理がある。
イエスの本意は別のところにあると言えそうだ。

「誰に税金を払うか?」ということは、
「誰の支配を受けることを(しぶしぶではあっても)よしとするか?」ということに直結する。
イエスの問い返しは「あなたがたは皇帝に支配されていることをよしとするのか、
あるいは神の支配を願うのか?」という意味に受けとめることができる。
神への信仰は、皇帝の絶大な権力をも相対化する。
イエスはそんな信仰の姿を指し示し、納税についての決断は質問者に投げ返される。
「誰の支配をよしとするか、それはあなた自身が決めなさい」ということだ。

では現代に生きる私たちは税金の問題をどうとらえればよいだろうか。
「神のものは神に...」と言って税金を拒否するのか?
それとも「納税は国民の義務だから…」としぶしぶ支払うのか。
「義務だから…」という消極的な姿勢ではなく、
「神のものは神に...」にならって「みんなのものはみんなに...」という視点を持ちたい。

有限な星・地球において、あらゆるものを分かち合わなければ生きていけない私たち。
お金もまたある程度までは「みんなのもの」と考え、
みんなに必要なことのために、税金を納めることが大切なのではないだろうか。




『 平和、それは寛容の心 』平和主日 エフェソの信徒への手紙4:1‐6(8月12日)

平和憲法の改正論議がかまびすしい。
「どこのワケの分からん国が攻めてくるかも知れないのだから、
自衛のための軍事力は必要だ」ということが言われる。
ワケの分からんヤツらは、力ずくででも押さえ込まねばならないということだろう。

「目的達成のためならば、核兵器の使用もしょうがない」といった発言もあった。
過去の事柄を「しょうがない」ということも大きな問題であるが、
未来のことについて「目的のためならしょうがない」という意図があるのだとすれば、
それは恐ろしい発想とつながっていく。

これらの考え方に共通するように思うのは、
「敵」とされる国やその国に生きる人々に「人格」を認めようせず、
「ワケの分からんヤツら」とひとくくりにする発想だ。

しかしそれらの国民も同じ人間であり、
私たちと同じように「人間としての心」を持って生きている。
おいしい物を食べれば顔がほころぶし、家族を失えば悲しみに暮れる。
大切なのは、対立する相手(敵)であっても、同じ人間としての息吹を持って生きている、
そのことに思いを巡らす「想像力」ではないか。

「平和主日」の今日、今年は特に「寛容」という言葉を心に刻みたい。
先日、久しぶりに聴講に訪れた大学院のゼミで、
担当教授の内田樹さんが言っておられた言葉が印象に残っている。
「『寛容』を担保するのは、『愛』とか『やさしさ』といった情緒的なものではない。
理解することが難しい他者の、その発想や行動様式を、
「どうして彼はそう考えるのか」と想像してみる力、それが寛容の姿勢を生み出す。
だから寛容を成り立たせるのは、感情ではなく、「知性」である。」

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。
平和のきずなで結ばれなさい」(エフェソ4:2−3)と聖書は勧める。
「寛容」というものが「いつもニコニコ、みんな仲良く...」
といった態度を示すのであれば、それは理想的ではあるが、実現は困難であろう。

しかし先の教授の言葉を受けとめるなら、
「仲良くできない相手」との間にも寛容は成り立つ。
「彼はなぜそのように考えるのだろうか…」と思い巡らす振る舞いの中に、
「寛容の心」というものが立ち上がる。
極端に言えば、憎しみを拭い切れない相手であっても、
寛容は成り立つものなのではないか。

「みんな仲良く、平和に…」という世界を作り出すことは、実際には難しい。
しかし寛容の心を目指すとき、「平和」は達成可能な目標となる。




『 生きる者のために 』   マタイによる福音書22:23−33(9月9日)

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というイエスの言葉が語られる。
死者に対して少し冷たいようにも思える言葉である。

この言葉は、サドカイ人からの質問、「7人の人と結婚した女性は、
復活の時、誰の妻になるのか?」という問いに対して語られたものだ。
これは、うまく答えられない姿をおとしいれようとする、サドカイ人の策略であった。

かつて似たような質問を受けたことがある。
(サドカイ人のようなイジワルな質問ではなかったけど。)
「私は30前に夫を亡くし、50数年をひとりで生きてきました。
天国で主人に会うとき、いったい何歳の主人と何歳の私が会うのでしょう?」。
答えに困ったが、とっさに浮かんだのが今日の聖書箇所であった。
「天国では天使のようになる、とイエスさまも言っておられます。
いちばんステキな姿で、いちばんステキだった頃のご主人と会えますよ」と答えた。

イエスは決して死者に冷たいのではないと思う。
しかし人間の心理は、気をつけないと死者への思いにずるずると引きずられてしまう。
(占い師の類が流行るのはその心理があるからとも言える。)
そうならないように、気付きを与えてくれるのが
「神は死んだ者の神ではなく…」というイエスの言葉である。

死んだ後のことは、人間にはどうすることもできない。
自分の死後の完璧な予想図を描くことが、人生の課題なのだろうか?
そうではないと思う。
むしろそういったことは神さまにお任せして、
いまこの時に、生きている自分に対して、生きて働いて下さる神の恵みを感謝し、
いのちある限り誠実な歩みを重ねること。
それこそが私たちの人生の課題なのではないだろうか。




『 最後に笑うために 』 ルカによる福音書6:20−21(9月16日)

「あなたの人生の究極の目標は何ですか?」
そんな質問を受けたら、あなたは何と答えるでしょうか?
ふだん私たちはあまりそういうことは考えずに生きています。
身近な目標や予定を目指して、それをこなすことが生活の中心です。
しかし時には少し突っ込んで、自分の人生について考えることは大切なことです。
教会で毎週礼拝が行なわれ、そこに人々が集う意味も、そこにあるのかも知れません。

「自分の人生の究極の目標は何か?」そう問われればどう答えるか。
私は、「自分の人生の終わりの日に『生まれてきてよかった』と思って旅立てること」
― そう答えたいと思います。
でもそのためには、直前になって考えても手遅れです。
そこに向かう毎日をいかに生きたか、
その積み重ねが最後の日の充実となって現れるのでしょう。

「今泣いている人たちはさいわいである。彼らは笑うようになる」とイエスは言われます。
私たちの人生はそんなに楽観的なことばかりではありません。
思いもよらない悲しみ、突然のアクシデント、
自分の心の中にも嫉妬心や憎しみを抱くこともあります。
心が沈むような「いま」にどっぷり漬かってしまうとき、
私たちは涙にくれ、笑うことを忘れます。

でもイエスは言われるんです。
「最後に笑えればいいんだよ」「最後に笑えるようになるんだよ」。
イエスは決して人生を軽く見ておられたのではありません。
しかし一方で、どんな絶望の中でも人を笑えるように導いて下さる神の導きを信じていた。
そしてその導きの中で、
行き詰まってもそれでも笑うことのできる人間の力を信じておられたのだと思うのです。

「最後に笑うために」、そのために「今」をどう生きればよいのか。
そんな問いを抱きつつ、自分の中にある「最後に笑える力」を信じて、
そしてその力を与えてくださる神さまの導きを信じて、
しんどい毎日をそれでも明日へと向かってゆく…、
そうすればその先に、私たちの人生の「究極の目標」が見えてくるのではないでしょうか。

  ♪ とにかく笑えれば
    最後に笑えれば
    情けない毎日に
    『ハハハ』と笑えれば ♪

         (ウルフルズ)。




『 権威よりも愛を 』  マタイによる福音書22:34−46(9月23日)

世の中には「権威ある歌声」を持つ人がいる。
豊かな声量、確かな音程で、人の心を一瞬で掴んでしまうような人だ。
しかしその歌声にも勝るとも劣らない歌声がある。
例えば結婚式で、新婦のために心をこめて歌おうとして、
こみ上げる嗚咽に声が声にならないような歌声。
客観的には決して優れた歌と言えなくても、
そこに「思い」が伝われば、それは世界で最高の歌声となる。

今日の聖書の箇所は二つの場面にまたがっている。
「全ての戒めの中で最も大切なものは何か?」というファリサイ派からの質問に対して、
イエスが「神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛すること」と答えられた場面。
もうひとつはイエスから「メシヤとは誰か?」との質問が出、
ファリサイ派が「ダビデの子孫から生まれる」と答えると、
イエスがそれを否定される、という場面である。
これを別々の話として読むのではなく、ひとつながりの出来事ととらえたい。

前半、後半、それぞれのメッセージは明確である。
前半でイエスが言いたかったこと、それは「いちばん大切なものは愛だ!」ということだ。
いっぽう、後半の「ダビデ云々…」の部分では、
「メシヤは当然ダビデ(ユダヤ人にとっての理想的人物)の家系から生まれる」という
権威主義的な発想への批判が語られている。
その二つをつなげると、「権威よりも愛を」というメッセージが浮かび上がる。

人間は権威に弱く、権威によりかかり、やがて権威を振りかざそうとする。
しかしそれよりも大切なものがあることをイエスは教えられる。

かつてひとりのファリサイ派として、権威主義的な信仰に浸りきっていたパウロは、
イエス・キリストと出会って
「どんなに知識を持っていても、立派な行ないがあっても、完全な信仰を持っていても、
愛がなければ私は無に等しい」(第1コリント13章)と言い切った。
彼もまたイエスから「権威よりも愛を」という大切な事柄を学んだのだ。




『 盛者必衰の理 』 マタイによる福音書6:5−15(9月30日)

「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」。
よく知られた『平家物語』の冒頭の一節である。
どんなに力を得た者も、栄華を極めた人も、いつかは衰える日がやってくる・・・。
昔の日本人はそれを「諸行無常=すべては空しい」という言葉で言い表した。

しかしこの「盛者必衰の理」は、別の意味で私たちに慰めを与えてくれるものである。
「いま泣いている人たちは幸いだ。あなたがたは笑うようになる」というイエスの言葉がある。
「あなたがたに涙をもたらすような人々の圧力、それを許す社会、それもいつまでも続かない。
どんな権力者も、皇帝の力も、いつまでも続くものではない」
そう受けとめるとき、それは希望の言葉となる。

エルサレムの神殿の立派な建物を見て驚愕する弟子たちに、
イエスはその神殿の崩壊を語られる。
「この石のひとつとして、崩されずに残るものはない」。
イエスはここで「盛者必衰の理」を語られる。
「威圧感を与えるような神殿、その神殿をバックに権威を振りかざす指導者たち、
しかしその威力もいつまでも続くものではない」と。

続けてイエスは「終末」についての予言をされる。
そのおどろおどろしい内容の言葉をどう受けとめればよいか、私たちは戸惑ってしまう。
神の国の到来のために、ここに書かれてあることがすべて「起こらなければならない」
そう言われるならば、「勘弁して欲しい」と正直思う。

しかしこの言葉に込められたイエスの、コア(中心的)なメッセージはしっかりと受けとめたい。
それは「盛者必衰の理」である。

今ある現実がどんなに圧倒的なものに思えても、そのことに心を左右されてはならない。
それは永遠に続くものではない。世界は移り変わってゆく。
それは「空しさ」ではなく、むしろ「救い」なのだ。
そして、最後に勝利して下さる神さまを信じて生きる。
そこに明日への希望が生まれることをイエスは示されるのである。




『 自由への呻き 』    出エジプト記5:20−6:1(10月14日)

「自由」とは、人間が究極に追い求める大きなテーマのひとつだと言える。
出エジプト記は、奴隷とされたイスラエル民族の、自由への解放の物語である。
モーセはその民族解放の指導者として、神に選ばれた人物。
神の召命を何度も拒みながら、しかし最後は神の言葉を信頼し、
その役割を担う決意を下していった。
その解放に向けての一番最初の関わりを伝えるのが今日の聖書の箇所である。

民を苦しめるエジプト王・ファラオに対し、モーセは神の言葉を伝え、解放への交渉をする。
しかしファラオはこれを聞いて逆ギレし、
イスラエルの民に、より過酷な労働を課すという仕打ちに出た。
苦しみが増したイスラエルの民は、モーセに向かって苦情を漏らす。
「何てことをしてくれたんだ。 お前のせいで、より多くの重荷を背負わされたではないか!」。

「自由への道のり」というものは、決してバラ色の夢に満ちた歩みばかりとは限らない。
むしろ多くの場合、その過程においては苦しみ・痛みを覚悟しなければならないことがある。
そんな時、自由を得るために苦労を背負うよりも、
多少不自由でも安定の方を望む気持ちを持ってしまうことがある。
「自由への呻き」に耐え切れない人間の心理がそこにある。

この「呻き」を耐え凌ぐことができるか否か。
それはその行く先に掲げる理念や理想を、
どれだけ本当に望んでいるか、本気で信じているかにかかっている。

「信じることを忘れちゃいけない」
「夢を、理想をあきらめちゃいけない」ということである。




『世の終わりは来るのか?』  マタイによる福音書24:36−44(10月21日)

東北地方で牧師をしていた頃、よく見かけた看板があった。
黒字に白文字で聖書の短い言葉が記され、終わりに黄文字で(聖書)と書いてある。
中にはちょっと看過できないような言葉もあった。
「死後、さばきにあう(聖書)」。
正直、「勘弁してよ...」という気持ちで眺めたものだった。

「世の終わり」と、そこでなされる(と言われている)「最後の審判」、
そういった事柄を強調するキリスト教の教派・グループもある。
人を脅しておいて、「だから滅びないために、信仰を持ちなさい」と迫る、
そのような伝道のあり方が、私はどうも昔からニガ手である。
自分自身の感性や思考の方向性に合わない、ということもあるだろう。
しかしもうひとつ、「イエスはそういう宣教をされなかったはずだ」と思うからだ。

世の終わりを強調し、悔い改めを迫るという人は昔からいた。
バプテスマのヨハネなどもそんなひとりであり、多くの人を惹きつけた。
イエスもヨハネから洗礼を受けられたことから分かるように、
相手が誰であっても妥協せず語る、その姿勢の厳しさに敬意を持っておられた。
しかし、最終的にイエスはヨハネとは共に歩まず、別の道を進まれた。
「神の裁き」よりもむしろ、「神の赦し」を中心に教えを語られたのだ。

ところが聖書には、そのイエスが語る「世の終わり」の予告が記されている。
これをどう受けとめればいいのか、戸惑いを覚えてしまう。
「この通りのことが起こるのですか?」と問われれば、「分かりません」としか答えられない。
しかし、じゃあ「世の終わりなどないんだよ...」と言えるかというと、そうも言い切れない。

宇宙には無限の星があり、既に燃え尽きて存在していない星もある。
私たちの生活に欠かせない太陽という星も、いつかは燃え尽きると言われている。
地球だけが例外、ということはあり得ないであろう。
私たちの生きるこの地球という星も、無限ではない。いつかは終わりを迎える(はずだ)。

それはちょうど、私たちの人生と同じだと言うことができる。
私たちのいのちにも、やがて終わりが来る。私たちはそのことを「知っている」。
「それがすぐにやって来る」という緊迫感の中で生きている人は稀であるが、
「いつかは必ずその時を迎えねばならない」それを意識することは時に有効だ。
なぜならば、そのことは翻って「今、という時の大切さ、かけがえのなさ」
そういったことに私たちの思いを向けさせてくれるからだ。

「世の終わりが来るのか?」と問われるなら、こう答えるのが正しいだろう。
「すぐにではないかも知れないけど、いつかは来る」。
出来ることなら、いつその時が来てもうろたえないように生きていきたいものだ。

そのためにはどうすればよいか?
それは「今を大切に生きる」という営みを続けることだ。
イエスの教えと生き様は、まさに「今を大切に生きる」ということを教えてくれる。
その導きに従うことが、私たちの存在の有限性に光を注いでくれる。




『 誰が「ふさわしい」と言えるのか 』  コリントの信徒への手紙 T 11:23−34(11月11日)

日本基督教団の常議員会(教団の役員会のようなもの)で、
いわゆる「オープン聖餐」を行なっている牧師に対する「辞職勧告」が決議された。
「規則違反」というのがその理由である。
聖餐式の方法については教団でも数十年にわたる議論が重ねられてきた歴史があり、
今回の議案にも「反対」の声が寄せられていたにもかかわらず、
規則を盾に決議が強行されたことは残念なことである。

聖餐式を、受洗者に限るか(クローズ)、未受洗者にも開くか(オープン)、というのが論点であるが、
クローズの論拠としてしばしば用いられるのが、第一コリント11章に記された、
パウロによる聖餐式制定文の中に出てくる「ふさわしくないままで」(27節)という言葉である。
「この言葉は、未だ信仰を告白せず、洗礼を受けていない人のことを表す」と解説される。
しかし本当にこの言葉は、そういうことを意図した言葉なのだろうか?

直前の箇所を見ると、当時の教会では、
礼拝のたびごとに共同の食事が行なわれていたことがうかがえる。
その食事の最後に「主の晩餐」すなわち聖餐式が行なわれていたようである。
ところがコリントの教会では、教会内の派閥争いの影響からか、
この共同の食事が、共同のものとならず、
先に来た者が独占するという状況があったようである。
そのような形で、自分自身を振り返ることもせず、
当然の権利のように「主の晩餐」にあずかろうとする人に対して、
パウロは「ふさわしくないままで...」と言っているのだ。

ルカ福音書に記されている、イエスの「ファリサイ派と徴税人のたとえ」を想い起こす。
神殿において自らの信仰を高らかに誇るファリサイ派と、
「罪人の私をお許し下さい」と胸を打ちながら祈った徴税人。
「神に義とされたのは、ファリサイ派の人ではなく、徴税人の方だ」とイエスは言われる。

何が大切なのか?
「私は信仰を持っている。私は当然聖餐にあずかるのにふさわしい者である」
  ― そう思い込んでいる人は「ふさわしくない」。
「私のような者が本当に神さまの恵みにあずかるのにふさわしい者なのだろうか...」
そんな風に自分を吟味し、悔い改めの心を持つ人こそ「ふさわしい」。
大切なことは、受洗の有無よりも、
自分自身を吟味するまなざしを常に持ち続けることではないか。




『 音を楽しむところに 』  詩篇92  (11月18日・第3礼拝 クラシック宗教音楽特集)

「音楽」は「音を楽しむ」と書く。
音を楽しむ心を与えてくださった神さまに、感謝したいと思う。
宗教改革者・カルヴァンは、「音を楽しむこと」によって人の心が惑わされることを批判的にとらえ、
音楽に対して大変禁欲的な教えを語ったという。
その時代においてはそういった流れが生まれたのはやむを得なかったのだろうが、
カルヴァンの時代に生きていなくて、よかったと思う。

しかし音楽の世界は、ただ単に人の心を楽しませるだけにとどまらず、
歴史を作り変えるほどの働きを生み出すこともある。

今日の礼拝で歌った讃美歌532番「やすかれ、わがこころよ」は、
フィンランドの作曲家・シベリウスの交響詩「フィンランディア」のメロディを元にした替え歌である。
この「フィンランディア」は、シベリウスがこれを作曲しなければ、
フィンランドという国は存在しなかったのではないかと言われるほど、大きな力を生み出した音楽だった。

19世紀末、フィンランドの人々は帝政ロシアによって支配され、自由を奪われていた。
そんな中、フィンランドの歴史を描いた
「いにしえからの歩み」という愛国的な演劇が上演されることになり、
挿入曲の作曲依頼を受けて作られたのが「フィンランディア」であった。
この劇は大好評を収め、特に終曲のメロディは「スオミ」(フィンランドのこと)と呼ばれ、
人々に感動を呼び覚ました。

しかしロシア皇帝は、弾圧のためすぐさまこの劇の上演を禁止した。
すると人々は劇の名前を変えて、さらにあちこちで上演した。
イタチごっこが繰り広げられる中で、この歌は次第に人々の間に広まり、
やがて詩が付けられて歌われるようになった。
こうして生まれた歌は自由を求める人々を鼓舞し続け、
1917年、ついにフィンランドは独立を果たした。

「音を楽しむ」という世界が、単にひとりの心を楽しませるだけに終わらずに、
神の正義を求める動きにつながっていったのである。




『 分かち合おう 』   使徒言行録4:32−35 (11月25日・収穫感謝CS合同礼拝)

藤原紀香さんは女優のお仕事の他に、
カメラマンとして各地の子どもたちの写真を撮る活動をしておられます。
東ティモールに行ったときの体験を新聞に書いていました。
一日ひとり一食しか食べられない貧しい村で、
ひとりの女の子が自分のご飯を紀香さんにくれるというのです。
「どうして?」と聞くと「おねえさん、やせてるから...」。
この体験をふり返ってこう言われました。
「どうしてこの子はこんなにやさしい心を持っているのだろう?
それは食べられることへの感謝の思いを持っているからではないでしょうか?」

私たちは「お金さえ払えば、食べ物は手に入れられる」
そう思ってることがありませんか?
もちろんそれは事実だけど、
「お金があれば何でもできる」というのは「まち・がい・です!」。
どんなにお金を持っていても太陽の光は作れません。
雨を降らせることはできません。
作物の実り、それは神さまの恵みによって与えられるものです。

もうひとつ、私たちがご飯を食べられるために、働いてくれている人がいます。
お百姓さん、畜産農家の人、漁師さん。
そういった人たちのお陰でご飯を食べることができるのです。
神さまと、作ってくれた人々への感謝を忘れぬようにしましょう。

そしてもうひとつ、収穫を感謝するときに忘れてはならないことがあります。
それは「分かち合う」ということです。

たとえばあなたがとってもお腹が空いていて、
やっとひとつのおにぎりを買うことができたとします。
隣を見ると、同じようにお腹を空かせている人がいる。
そんな時「これはオレが買ったものだから、お前にはやらん!」
そう言ってひとりで食べてしまったら、お腹はいっぱいになるかも知れない。
でも心は貧しくなってしまいます。
分かち合うと、お腹は半分しかいっぱいにならない。
でも、心はその分、2倍に、いやもっと豊かにふくらむでしょう。

「飯は天です。
 天をひとりでは支えられぬように、
 飯はみんなで分かち合い食べるもの」(金芝河)
                 
♪空をひとりじめできないように、
 みんなのものだよ食べ物は。
 分かち合いましょう、感謝の心で。♪(こどもさんびか102)

分かち合う心を大切にして、本当の意味で「豊かに」生きていきましょう。




『 聴く力 』    イザヤ書40:3‐5(12月9日) アドベント(待降節)第2主日

日本人は、心の中にある思いを伝えるのがヘタだとよく言われる。
何でも口に出してコミュニケーションを取るアメリカ型の文化から見れば
「分かりにくい民族」と映るのだろう。

これは文化の成り立ちにも一因があると言えるだろう。
移民国家・多民族国家のアメリカは、異なる文化同士の交わる環境なので、
言葉によるコミュニケーションが重視される。
これに対して均質性の高い日本社会では、
口に出して言わないニュアンスまで感知する(空気を読む)感覚が発達したと言える。
この日本的感覚を「ダメだ」と否定する人もいるが、
案外大切な能力なのではないかと思う。

これは発信する能力と、受信する能力の違いと言えるかも知れない。
昨今、この発信能力を高めることばかりを目指して、
受信能力を培うことを疎かにしている現状がありはしないだろうか。
学校でも、企業でも、庶民の生活でも、
自己主張を声高に語ることのみが繰り返されている現実があるように思う。
テレビの討論番組を見ていて疲れるのは、みんな「語る」ばかりで、
「聴く」ことをしないからである。
自分の思いを相手にぶつけるばかりで、受けとめようとしないからである。

アドベント(待降節)は、「待つ」季節である。
「待つ」という行為と「聴く」という行為には共通するものがある。
それは「受身の側に身を置く」ということである。
信仰にも同じことが言えるのではないか。
「信仰とは聞くことにより、
しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。

「荒れ野に主のために道を通せ」― そのような声を預言者イザヤは聞いた。
しかしそれは誰の耳にも明らかに届く声ではなかった。
「聴こう」という構えができていないと、どんなに大音量で音声が流れていても、
それは耳にも心にも入ってこない。
しかし「聴く」姿勢を整える人にとっては
「その響きは全地に、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」(詩篇19)のである。




『 弱さの力 』 ルカによる福音書2:8−12(12月23日)  クリスマス礼拝

年配の方々が集まるパーティの席に、
ひと組の若夫婦が生後4ヶ月の赤ちゃんと共に参加しておられた。
それだけで、何となく場の雰囲気が変わるのを感じた。
無力な幼い命をいとおしむ空気がその場を包んでいたのだ。

教会で子どもたちが遊んでいる光景を目にする。
子どもなりに、自分よりさらに小さな子どものことを守りながら遊んでいる姿に、
胸が熱くなる時がある。

ひとりでは何もできない無力な幼な子。
しかしその存在には周囲の人々を突き動かさずにはいられないような「力」がある。
幼な子の「弱さ」が回りの人々の力を引き出しているのである。

パスカルは「正しい者に従うことは正しいことであり、強い者に従うのは必然である」と記した。
これを引いて、鷲田清一は「弱い者に従うところには『自由』があると思いたい」と語った。
強い人に従うことは命令への服従であるが、弱い人に従うことは、
自分の主体的な思いからほとばしり出る行為であり、そこには本当の自由がある、ということだ。

私たちの生きる『現代資本主義社会』は「強さ」に価値を置くシステムと言える。
そのような現実を認めつつも、「強さ」にしか価値を認めない社会は、
実はとても厳しい息苦しい社会と言えるのではないか。

なぜなら、そこで人は自分の弱さを隠し、ごまかして、
常に肩に力を入れ、虚勢を張って生きなければならないからである。
そして人間とはそのような生き方を延々と続けられるほど
強い生き物ではないからである。

神の救いをもたらすために、世につかわされた幼な子イエス。
しかしその誕生の場所は弱く貧しい「飼い葉桶」であった。
神の救いとは頭ごなしの「強さ」から来るではなく、
この世の最も「弱い」存在を通して、そこから差し込んでくる温かな光なのである。

私たちも「弱さを隠さねばならないような『立派な』交わり」ではなく、
「弱さを見せ合える『温かい』交わり」を目指すものでありたい。




『 わたしを見つめるまなざし 』  イザヤ書43:1‐5(12月30日)

先日エレベーターに乗ったとき、自分の後頭部を映し出したモニターの映像を見た。
しばらくはそれが自分の姿だとは気付かなかった。
ふだん自分では見ない姿を自分の目で見た体験は、新鮮であり驚きであった。

私たちは普段、「自分のことは自分が一番知っている」と思って生きている。
心の内側まで全部人にさらす人はいない。
人には分からない「もうひとりの自分」を抱えてみんな生きている…
 ― そんな風に思いながら私たちは生きているのだろう。

しかし一方で、他者には見えているが自分では見えていない、
気付いていない自分の姿というものもあるのではないだろうか。
そして「自分のことは自分が一番よく知っている」という生き方よりは、
「自分のことを自分は知らないのではないか?」という生き方の方が、
信仰の道にふさわしいのではないか。

「自分でも気付かない自分のことを、ちゃんと見つめるまなざしがある…」
それが神さまのまなざしだと思うからだ。

そのようなまなざしがある、ということは、ある意味で恐ろしいことである。
そこでは人は何一つ隠し通すことができないからだ。
しかしその一方で、それは安らぎでもある。
そこで人は何一つ自分を偽る必要がないからだ。

そしてそのまなざしは、私たちを裁く査定のまなざしではなく、
「私の目にあなたは値高く、私はあなたを愛している」、
そんな愛のまなざしであると信じて歩みたい。


 
 
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